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照姫まつりとは

照姫まつりは、石神井城にまつわる史実に親しみ、ふるさとの意識の高揚と地域の活性化を図ることを目的として昭和63年に第1回が開催されました。

照姫まつりの出陣式・帰還式では、一般公募された総勢約100人が豊島氏一族に扮して、石神井城落城にちなんだ物語を披露します。

照姫まつりで披露する物語では、落城のとき豊島泰経は三宝寺池で最後を迎えますが、実際には、平塚城(北区)へと難を逃れ再起を図ったと記録が残されています。

以下に、石神井城落城の歴史と、照姫伝説とを整理して紹介しますが、石神井城落城の歴史と照姫伝説を踏まえ、さらに深く照姫まつりの物語を楽しんでいただければ幸いです。

また、石神井公園周辺には、歴史と伝説にゆかりの地が多くあります。公園散策の折にはぜひ足をお運びください。

石神井城落城の歴史

石神井城の落城と豊島氏の滅亡

室町時代の文明9年(1477年)、当時の石神井城主・豊島泰経(豊島勘解由左衛門尉)は、対立した江戸城主・太田道灌と江古田・沼袋原で戦い、これに敗れました。
敗れた豊島泰経は、石神井城へと逃れましたが、さらに太田勢に攻められ石神井城は落城し、平塚城(北区)へと逃げ延びました。
翌年、豊島泰経は、平塚城で再挙しましたが、再び太田勢に平塚城も落とされ小机城(横浜市神奈川区)へと逃れましたが、その後消息不明となり豊島氏は滅んだとされます。

また、歴史の記録には、豊島泰経の娘・照姫に関する記述はなく伝説上の人物とされます。

石神井城跡(東京都指定史跡)

石神井公園から少し南に下ると石神井川が流れています。
石神井城跡(石神井台一丁目)は、石神井川と三宝寺池とに挟まれた小高い所にあり、城中心部にあった土塁と空堀を見ることができます。

鎌倉時代中期〜末期頃の築城とされる石神井城は、当時周辺を支配した豊島氏の拠点でした。
練馬区内には、石神井城のほか現在のとしまえん内に練馬城跡(向山三丁目)も残されています。

照姫伝説

照姫まつりは、地元に伝わる「金の乗鞍と照姫」の伝説を題材にした物語を演じます。

金の乗鞍と照姫伝説のあらまし

道灌に攻められ最後を悟った石神井城主・豊島泰経は、家宝「金の乗鞍」を置いた白馬にまたがり、城の背後の三宝寺池に身を沈めた。泰経の娘、美しく聡明な照姫もまた父の死を悲しみ、後を追って三宝寺池に身を投げた。
道灌はこれを憐れみ、照姫の亡骸を弔って塚を築き、この塚はいつしか姫塚と呼ばれ、そのそばに立つ老松に登ると、池の底に泰経とともに沈んだ金の鞍が燦然と輝いているのが見える。

北豊島郡誌

大正7年(1918年)刊行の『東京府北豊島郡誌』(北豊島郡農会刊行)は、地域の神社仏閣や伝説、風俗などが記されたものです。
その中で、「豊島泰経が落城に際し、愛馬諸共池に入り戦死した。この松の上から池底を望むと、金の乗鞍が光ると伝へられ、この松を照日松と呼ぶ」と記述されています。※出典:練馬ふるさと事典(2011年、練馬古文書研究会)

小説『照日の松』

「金の乗鞍と照姫」の伝説については、『東京府北豊島郡誌』の刊行から約20年を遡った、明治29年(1896年)の小説『照日の松』(遅塚麗水著)を起源とする説が有力です。

この小説には、「照日姫」が登場し、また「豊島泰経が愛馬もろとも三宝寺池で戦死し「照日の松」から池を見ると鞍の輝きが見える」という筋書きがあります。ただし、小説が完全な創作か、地元取材をもとにした創作かは定かでありません。

三宝寺池の宝探し

明治41年(1908年)、地元から都知事に許可を願い出て、三宝池に沈むとされる伝説の「金の乗鞍」を発見しようと池の探索が行われたそうです。
このエピソードから、「金の乗鞍と照姫」の伝説が、当時すでに地域に浸透していたことが伺われます。